NO31.太平洋戦争の終結

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太平洋戦争の終結
1945(昭和20)年8月6日の広島、続いて9日の長崎への原爆投下が決め手となり、ついに日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に対して無条件降伏を通告した。8月15日のことである。
この日正午に昭和天皇の放送が全国に流された。学院では神崎院長が学生生徒一同を集めて敗戦を伝えたが、学徒出陣と勤労動員のために、集まった学生は極めて少数であった。当時は夏季休暇中のことでもあり、とりあえず勤労動員を解除された学生生徒は、当分の間自宅待機とする措置がとられた。やがて徴用されて黒く塗りつぶされたままの校舎へ学生が帰ってきた。また在籍の身分で軍隊に召集されていた学生も、相次いで復員・復学してきた。
それにしても、戦争に駆り出され、尊い犠牲となった戦没者は、学院全体で218人に達している。戦争はこのような形で学院の中に大きな傷跡を残したのである。
空襲による兵庫県下の被害状況は、被災者77万人、死者1万2千人、重軽傷者2万9千人、家屋の焼失20万戸と伝えられている。その大半は神戸、阪神間に集中した。日本国民全体が焦土の中で茫然と立ちすくみながら、しかも再建へ向かって歩み出さなくてはならなかった。関西学院もそれに向けて第1歩を踏み出すために、1945(昭和20)年9月17日、専門学校、大学予科の授業が再開され、続いて10月には大学、11月に中学部が再スタートを切ったのである。