NO29.戦時下の中学部

INDEX>
戦時下の中学部
 軍国主義の圧力のため田中貞中学部長が1940(昭和15)年12月に辞任した後、遠く弘前東奥義塾から沓沢吉太郎が部長として来任した。
  戦時下の教育方策の一つに学徒の錬成教育があった。勤労作業との関連で教師が学生生徒と寝食をともにして生活を通じての訓練を行うもので、すでに中学部は有馬郡道場村に修養道場(1940年9月落成)をもっていたが、1943(昭和18)年5月には学院の修養道場が宝塚北部の長尾山字桜小場に設けられ、翌年度から新入学生の宿泊訓練等に利用された。
  中学部にとって、このころが最も暗く悲惨な時期であった。生徒の中には軍関係諸学校に応募したり、予科練に入隊する者があって人員が減り、残った者も「勤労報国協力令」(1941年)によって勤労動員が徹底されて、2年生以上は学校内で授業ができなくなった。1944(昭和19)年の「緊急学徒動員方策」が発せられると通年の学徒動員となり、ペンを捨てて軍需工場で兵器の生産に協力した。
  1944(昭和19)年には本土の空襲が激しくなり、学院キャンパスの一部や、教職員、生徒たちの家も多く被爆、被災した。このようにして戦争末期を迎えた1945(昭和20)年3月、沓沢部長が退職した後を元高商教授畑歓三が引き継いだ。動員中の工場は戦災を受けたため、4月からは中学部全校生徒は西宮市剣谷国有林へ動員、ここで終戦を迎えたのであった。