NO24.上ヶ原における中学部

INDEX>
上ケ原における中学部
 旧制中学部は昭和に入ってから日本社会の軍国主義の影響を最も強く受けた。配属将校や軍人の教官が徐々に訓育の主導権を握り、昭和10年代に入ると教練の授業が週に5、6時間もあるほか、野外演習や年1回の査閲のための準備を含めると、中学部教育の中心はすでに軍隊式の訓練に近いものになっていった。田中貞中学部部長(1938~42)はこのような傾向に耐えきれず、4年半の在任で部長職を辞任したほどである。しかし軍人たちは学院においては礼拝に反対することはなかった。
 神戸方面からの通学生たちは、甲陽園駅から歩くことが定められた。生徒たちの校外生活に対する取り締まりも厳しく、映画、観劇、飲食店の立ち入りは厳禁され、県単位の「補導(教護)連盟」に属する教師たちが要所を見張っていた。中学部では学院出身の英語教諭であり、『40年史』の著者でもある村上謙介そのほかの教師がこの役にあたって、生徒たちから恐れられていた。
 このような軍国主義に対する抵抗は二つの面に表れた。一つはキリスト教の伝統であり、今一つは宝塚を中心とした阪神文化の影響である。第一を代表するのは真鍋中学部長(1930~38)であるといってよい。有名な生物学者であり、また和漢洋の教養に秀でた真鍋部長は、小津時に枯淡な人格者として生徒たちの人望を集め、中学部内の「静修所」を中心として少人数の生徒たちにキリスト教の信仰と深い人格的な感化を残した。また、1925(大正14)年よりはじめられた夏期三日月キャンプの伝統は、現在の中学部に受け継がれている。
 宝塚少女歌劇の存在は上ケ原移転後の学院生にとって大きな関心の的であったが、中学部生のある者は厳重な監視の目をくぐって観劇に出かけ、電車の中で宝塚音楽学校の生徒たちと乗り合わせることを楽しみにしていた。