NO23.学生・生徒の動き

INDEX>
学生・生徒の動き
 上ケ原移転の年、『甲東学苑』第1号(文学会)や『劇』第1号(劇研究会)が発刊され、新聞部は月刊制度を確立した。翌1930(昭和5)年2月10日には文化祭が初めて大阪の朝日会館で開催され、オーケストラ演奏やマンドリン合奏・劇・映画上映等をもって盛会裡に終わった。1931(昭和6)年には『文学部回顧』、続いて1934(昭和9)年にも『文学部創立回顧』という書が文学部の学生たちによって発行された。また1933(昭和8)年以来、グリークラブが全国合唱コンクールで連続1位に選ばれ、全国に学院の声価を高めていったのである。
  運動部の躍進も目覚しかった。1929(昭和4)年、蹴球(サッカー)部が全国制覇を遂げたのに続き、相撲部も1931(昭和6)年の秋、境大濱において念願の全国制覇の夢を団体優勝によって達成した。そのほか庭球・野球・陸上競技・剣道・柔道・弓道・水上競技・山岳・卓球・籠部(バスケットボール)・ラグビーと運動部の大部分が全国あるいは関西の王者として活躍し、1936(昭和11)年に挙闘部、1937(昭和12)年には軟式庭球部と排球(バレーボール)部が加わった。こうしてこの時期、学生のクラブ活動は一つの黄金時代を迎えた。
  1931(昭和6)年9月に、労働者のための福祉施設「暁明館」を、学院の学生および教職員の有志で組織していた「学生奉仕会」が受け継ぎ、神崎高商部長を理事長とする「関西学院セツルメント大阪暁明館」が開設された。
  一方、国家を挙げての準戦時体制化が進み、1939(昭和14)年7月には大学、予科、専門部、高等商業学校より選抜された35人の学生が5人の教授に付き添われて「興亜青年勤労報国隊」に参加して、北支・満州各地で勤労奉仕に従事したが、予科生豊津善夫が北満作業地で病没し、同年9月6日学院で慰霊祭が催された。