NO15.移転に向けて

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 大学昇格は学生、教員の悲願であったが、その資金調達において行き詰まった。しかしこのとき、神は思わぬ手を差し伸べた。高等商業学部教授菊池七郎は、隣家の友人で、アメリカ帰りの少壮実業家河鰭 節に、学院の窮状をもらしたところ、河鰭は現在の敷地を有利に売却して郊外に移り、その差益で大学昇格の資金100万円を捻出するという打開策を提案した。
たった今ようやく整備された美しいキャンパスを手放して移転するという発想は、余りにも大胆であったが、この移転案に即座に賛成したのは、意外にもウッズウォース、アウターブリッヂをはじめ米加の宣教師
たちであった。当然、抵抗も起こった。「大学は都市から離れるべきではない」「学院発祥の地を捨てるのか」「中学部が遠くに移転することは経営上危険である」など学内の反対論に加えて、神戸市の猛烈な引き止め工作も始まった。緊迫した理事会、教授会が繰り返され、激しい反対と中傷の続く中、河鰭はついに時の高等商業学部長神崎驥一と阪神急行電鉄専務小林一三の会見実現にこぎつけ、これが学院100年の大計を決める摂理的な交渉となった。1926(大正15)年秋のことである。阪急側には神戸進出や沿線開発等の計算もあったようであるが、原田の校地および校舎を320万円で買い取り、同社ですでに売買契約をしていた上ヶ原の校地7万坪(約23万㎡)を55万円で学院の譲渡するという交渉が成立した。
こうして、翌27(昭和2)年5月27日、理事会は武庫郡甲東村上ヶ原への移転を全員一致で決定し、さらにこの差額で懸案の大学設立に必要な諸経費を捻出することとなった。このことにより関西学院は創立以来の米加両教会による経営という形を改めて、自立した経営団体「財団法人関西学院」(1931年)となり、1932(昭和7)年に大学設立が文部省から許可されたのである。