NO14.大学昇格問題

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  高等学部を設置して高等教育に乗りだした学院が大学を開設するのは時間の問題であり、必然の道のりであった。すでに東京や関西のいくつかの専門学校が専門学校令のもとで大学と称していたことに大きな刺激を受けていた学院理事会は、1914(大正3)年以来委員会を設けて、ひそかに旧専門学校令による大学設置の検討を重ね、1918(大正7)年の1月には近隣の神戸女学院と前後して、これを決議したのであるが成功しなかった。
同年12月に新しく大学令が制定されたので、高等学部学生たちは1919(大正8)年1月、学生総会を開いて、新大学令による大学昇格を推進する決議をした。その決議文は、新大学令の中の「人格の陶冶」という教育目的が宗教学校においてこそ初めて可能だと論ずる格調高いものであった。
理事会は直ちにこれを受けて「大学委員会」を設置し、そのための具体案を練り北米にある、米加両メソヂスト教会による「関西学院連合教育委員会」(Joint Educational Commission for K.G.)に送った。この委員会も大学昇格に賛同したのであるが、折しも第一次大戦後の不況のため、財政的理由でその早期実現に消極的となった。こうしてこの問題は、一時中断した形となったが、その後に起こってくる原田の森校地売却と上ヶ原移転によって実現されることになる。