NO10.普通学科より中学部へ

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  1915(大正4)年2月、普通学部は関西学院中学部と名称を変更する認可を文部省より受けたが、これは学院の中等教育が公に認められたという意義のほかに、教育の内容的な転換をも示しているように思われる。
普通学部は早くも開講翌年、1890(明治23)年およに1894(明治27)年に学科課程を改めたが、1894(明治27)年には新月の校章が制定され、1906(明治39)年には制服の着用と兵式教練が生徒たちに強制され、1910(明治43)年には、入学者の年齢制限が行われることになり、漸次公立中学校の制度に近づいた。生徒の面からいっても最初は寄宿生が主であったが、通学生の増加や、また吉岡院長はじめ歴代部長の寛大さから他校からの退学生(永井柳太郎など)の受け入れなどによって、生徒の気質も変化し、クリスチャンでない者の数も増えた(1917年春にはクリスチャンの数は144人で全体の5分の1)。
このことを象徴的に示すのが1909(明治42)年の鉄拳制裁事件である。これは校風を維持しようとして一部の上級生が起こした事件であるが、吉岡院長は、その責任はもっぱら自分にあるとして教師および生徒一同に謝し、その償いとして全校の掃除を自ら行うことを宣言した。
1914(大正3)年、生徒の間に「不穏な行動」があり、一教諭が退職を余儀なくされたので、部長西川玉之助はその責任をとって辞職(1915年)し、また当時の教頭真鍋由郎もそれが原因となって一時学院を去った。しかし、後に帰学し、1923(大正12)年に再び鉄拳制裁事件が起こったときには真鍋自身がその責任をとって、全校生徒の前にひざまずいて謝したという。このようにして中学部の教育は、中学校として認められた反面、公立中学と同じ制約と指導を受けることになり、単に従来の自由教育ばかりでは済まなくなったのである。