NO11.高等学部文科の伝統

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  新しい理想と意気込みをもって開設された高等学部の中で、文科は京都以西に例のない新しい高等教育機関であった。しかし順調な出発をした商科と比べて、文科には入学者も少なく(初年度は商科36人、文科3人)、また途中で転校・転部する者が多く、最初の英文科卒業生がでたのはようやく1919(大正8)年のことであった。
この停滞を破ろうとしたのは初代の文科長小山東助(1879-1919)である。彼は在任わずか1年余(1913~15)で、国会選挙に立候補のため学院を離れたが、文科を英文・社会・哲学の三つの専攻に分ける制度を始め、1915(大正4)年には学科目を改正して文科の整備に尽力した。殊に彼は学院就任前すでに、毎日新聞で論陣をはり、早稲田大学の講師を務めていた。その該博な教養・学識と時代に対する鋭い洞察と東京の本郷協会で培われた熱心な信仰をもって、学生たちに新しい息吹を与えた。彼によって学院の文科系の学問的・精神的基盤が据えられたのである。
その後高等学部は1921(大正11)年に高等商業学部と(専門部)文学部に分かれたが、英文学科には佐藤清らが教授として着任(1913年)した。ここから1922(大正11)年、学生の寿岳文章・曽根保が中等学校英語科教員免許資格試験に合格して、学院卒業生に同検定無試験免許が与えられるきっかけをつくった(1924年)。社会学科には、河上丈太郎(1918年)や東大新人会に属した新明正道(1921年)、松沢兼人(1923年)、阪本勝(1926年)ら新進の学者が教授として就任し、学生たちに新しく社会科学の学問と同時に政治や社会問題やジャーナリズムの領域への目を開かせた。この文科の伝統は現在の大学で文学部、社会学部に受け継がれている。

第1回高等学部文科卒業生