NO9.ランバス博士の足跡をたどるⅢ

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○あの山に尖塔そびえる会堂を

ウォルターはキリスト教教育に力を入れるとともに、福音宣教にも情熱を注ぎました。神戸から広島、山口を経て下関までの山陽道、多度津、松山、宇和島の四国、大分、別府の東九州と、広くキリストの教えを伝えました。
ウォルターが夜間学校時代からともに伝道に務めてきた砂本貞吉とともに船に乗って瀬戸内海を福岡に向かい、関門海峡を通っているときでした。ウォルターは下関の高台を指して砂本に言いました。
「あの山の上に十字架の尖塔高くそびえる会堂を建て、この海峡をわたる人々に心の光を掲げたいものだ」砂本はこの言葉を生涯忘れることはできませんでした。ここからウォルターの夢をかなえるため、弟子たちの活動が始まったのです。

○ランバスの蒔いた3つの種
砂本は1904年(明治37年)下関に講義所を作り、そこを拠点により一層伝道に従事しました。やがて、教会ができるとそこに牧師として赴任し、会堂を立てるための募金活動をはじめました。1921年(大正10年)には、252坪(830㎡)の敷地を購入するに至りましたが、会堂を立てられぬまま1925年(大正14年)下関を去らねばなりませんでした。1936年(昭和11年)、25歳で赴任してきた山崎治夫に、砂本は会堂建設を託しました。「やってくれよ。ランバス博士の夢を実現してくれよ」山崎の耳に彼の力強い声がこだましました。それから3年、山崎は一切を捧げて会堂建設に専念したのです。


○会堂の完成 ―――― 「一粒の種」を受け継いで
1938年(昭和13年)、赤い屋根と白壁の美しいスパニッシュスタイルのランバス記念礼拝堂が、関門海峡を一望する下関の高台に完成しました。玄関の大理石には「ランバス記念会堂―――砂本貞吉牧師の努力による」と刻みつけられています。これはウォルターの弟子の一人、後に監督になった釘宮辰生の筆によるものです。
この会堂のように、ウォルターと弟子たちは力を合せて伝道を推し進めました。その結果、西日本から多くの青年たちが伝道へ献身する決心を固め、関西学院に学んだのです。
神学部第1回卒業生で牧師をしたあと関西学院の中学部長になった田中義弘、牧師でメソジストの日曜学校の父と慕われた水戸吉太郎、関西学院神学部の教授から副院長となった松本益吉、長く伝道に従事し博識をうたわれた学者で母校のためにつくした村上博輔。これらの人々に代表される多くの弟子たちがウォルターの夢を支え、「一粒の種」の精神を後々まで伝えました。ランバスが自身の情熱を注いだ地に蒔かれた一粒の種は着実に芽を出し、今でも私たちの中に受け継がれています。