NO7.ランバス博士の足跡をたどるⅠ

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ランバス博士



○医療宣教師をめざして
ウォルターが医師になることを決意したのは、エモリー・アンド・ヘンリー大学在学当時です。彼の大学での学生生活は、学生らしい勤勉に満ちたものでした。彼は勉学への決意を遠い中国にいる母親に書き送っています。「私は全力を尽くして勉強しています。同時にできるかぎり時間と労力とお金とを上手に使おうと努めています。人が何かするときに全力を尽くしてあたれば、半分の力であたるよりも、時間と労力を節約することができるからです。」彼の医学への情熱は、高校時代に心を動かされた一冊の本から始まりました。それはロバート・モファットという人の伝記です。モファットはロンドンの宣教師でしたが、1816年に南アフリカに渡り、カラハリ砂漠の近くに49年間も定住。聖書を現地の言葉に訳し、農業と灌漑の指導をしました。ウォルターは神の福音を伝える仕事の精神の気高さに感動し、自分もいつか人跡未踏の奥地に分け入る宣教師となりたいと考えるようになったのです。少年の日に読んだ本が、その人の一生を左右することは決して珍しいことではありません。ウォルターの心の中でその小さな炎は消えることなく燃えつづけたのです。
○医療と伝道
1877年11月、ウォルター・ラッセル・ランバスは妻デイジーとともに、22歳の若さで中国の上海にわたりました。そして、医療器具を入れた袋を背負って何百kmも患者を探しながら見知らぬ町を巡りました。病気で苦しむ人を見つけると診療を施し、患者のために祈り、聖書の言葉を教えました。ウォルターは1週間に約170km巡回し、6つの町で医療と説教をしました。翌月は2週間に約320km以上を巡回し、12の町を訪れました。
ウォルターの治療に最初に身をまかせたのは貧しい人々たちでした。当時の中国にはなかった外科医術と、彼自身の親切心や思いやりの力で、ウォルターは人々の信頼を得ていきました。そして、彼のもとに集まる人々は次第にその数を増していったのです。ウォルターは医療宣教師として体の病気の診察だけでなく、心の指導にも多くの時間を割きました。彼が最初に診察した766人の患者のうち、500人には魂の救いについて、一人ひとりと話し合いました。
○阿片との戦い
当時の中国はアヘン戦争の後遺症に悩んでいました。阿片の犠牲になった人々を救うため、ウォルターはあらゆる努力を惜しみませんでした。
彼はまず、阿片を吸引する習慣をなくそうとしました。その方法は厳しいものでした。阿片の即時廃棄。三日間の監禁。朝夕の祈り。最悪の結果になっても責任を問わないという誓約書へのサイン。その結果、普通の人なら5日間で悪癖がやみ、2週間で正常な姿に立ち直ることができました。
ウォルターは1880年5月、本格的な阿片患者療養所を開設します。ウォルターの心にいつも明確にあったのは、「人類を不幸にし蝕む悪の働きは、根絶されなければならない」ということでした。

次回は、「日本へ  教育への情熱」